The soul painter who continually
confronted
himself,
Rey Camoy's allure.
About the painter Rey Camoy
1985年、画家・鴨居
玲は57歳という若さで世を去りましたが、5年に一度、全国に巡回する回顧展は、回を重ねるごとに人気を増し、年々若い層のファンをも増やしつづけています。
「人間の心の奥の暗さ、弱さ」に心惹かれ、常に「人間とは何か?」と問い続けキャンバスに向かった鴨居
玲。決して美しさを追求した表現ではなく、時には醜とも映る絵画は、人間を見つめることから逃げることのなかった鴨居の強い生き方を、観るものにつよく伝えてくれるようです。
本特設サイトでは、画家と画商という立場を超え、鴨居 玲に寄り添い続けた日動画廊ならではのエピソードを中心に、鴨居の画家としての人生を紹介いたします。
「1984年の終りに」
油彩 27.6×22.3cm 1984年
鴨居
玲は1928年、石川県金沢市に生まれた。父親は新聞記者で、大阪毎日新聞を経て金沢の北國毎日新聞社に赴任。小学生時代、ソウルに5年間、その後しばらく大阪に住んだ以外は、金沢美術工芸専門学校(現:金沢美術工芸大学)を卒業するまで金沢で過ごした。終戦後、18歳で画家を志し同校に入学、高名な画家・宮本三郎の教えを受け、20歳で石川県現代美術展にて石川県知事賞を受賞、また二紀展に初出品、初入選するなど、将来を期待される若き画家としてスタートを切った。しかし父親の急逝もあり、卒業後は東京へ移り、映画の看板描きなどして生活費を得ながらの制作が続いた。その後金沢へ戻り、田中千代服装学園にて講師を務めたり、六甲洋画研究所に通い、後進の指導にもあたった。個展の開催やパリへの渡航などしながら制作を続けるが、37歳のころ行き詰まりを感じ、気分転換に親友・若林和男を頼りブラジルへ渡る。そこで制作した作品がサンパウロ日系人美術団体展「サロン・ド・セイビ(聖美会展)」にて金賞を受賞。その後南米ボリビア、ペルーと流浪の日々を経て二度目のパリへ渡り、翌年にはローマを経て帰国に至る。
日動画廊での最初の個展が開催されたのは、帰国後1968年、鴨居が40歳の時である。下着デザイナーの鴨居の姉・鴨居羊子が弟を案じ、友人の司馬遼太郎へ相談したことがきっかけで、大阪日動画廊での個展開催に至った。本人は開催をうれしくも結果を恐れていたというが、ふたを開ければ個展は広く注目を集め、顧客も付き、作品は完売に近かったという。ちょうどそのころ日動画廊では、若手作家を発掘・育成するための公募展を発足し、画家の登竜門として注目を集めていた。画壇から遠ざかっていた鴨居はその存在を知らなかったというが、画廊の勧めで出品、翌年の第4回昭和会展にて優秀賞を受賞。また、昭和会より歴史のある安井賞でもノミネートされたうえ受賞。ダブル受賞を果たしたのである。こうして颯爽と画壇に登場、あっという間に注目を集め、画壇の寵児となっていった。画商からも次々と声がかかるが、臆病さと面倒さから、鴨居は自身の発表の場を日動画廊のみでと希望、それ以来、鴨居
玲と日動画廊の二人三脚の歩みが始まったのである。鴨居41歳、画家としては決して早くないデビューであった。
玲は1928年、石川県金沢市に生まれた。父親は新聞記者で、大阪毎日新聞を経て金沢の北國毎日新聞社に赴任。小学生時代、ソウルに5年間、その後しばらく大阪に住んだ以外は、金沢美術工芸専門学校(現:金沢美術工芸大学)を卒業するまで金沢で過ごした。終戦後、18歳で画家を志し同校に入学、高名な画家・宮本三郎の教えを受け、20歳で石川県現代美術展にて石川県知事賞を受賞、また二紀展に初出品、初入選するなど、将来を期待される若き画家としてスタートを切った。しかし父親の急逝もあり、卒業後は東京へ移り、映画の看板描きなどして生活費を得ながらの制作が続いた。その後金沢へ戻り、田中千代服装学園にて講師を務めたり、六甲洋画研究所に通い、後進の指導にもあたった。個展の開催やパリへの渡航などしながら制作を続けるが、37歳のころ行き詰まりを感じ、気分転換に親友・若林和男を頼りブラジルへ渡る。そこで制作した作品がサンパウロ日系人美術団体展「サロン・ド・セイビ(聖美会展)」にて金賞を受賞。その後南米ボリビア、ペルーと流浪の日々を経て二度目のパリへ渡り、翌年にはローマを経て帰国に至る。
1969年「第4回昭和会展」カタログより
優秀賞受賞
日動画廊での最初の個展が開催されたのは、帰国後1968年、鴨居が40歳の時である。下着デザイナーの鴨居の姉・鴨居羊子が弟を案じ、友人の司馬遼太郎へ相談したことがきっかけで、大阪日動画廊での個展開催に至った。本人は開催をうれしくも結果を恐れていたというが、ふたを開ければ個展は広く注目を集め、顧客もつき、作品は完売に近かったという。ちょうどそのころ日動画廊では、若手作家を発掘・育成するための公募展を発足し、画家の登竜門として注目を集めていた。画壇から遠ざかっていた鴨居はその存在を知らなかったというが、画廊の勧めで出品、翌年の第4回昭和会展にて優秀賞を受賞。また、昭和会より歴史のある安井賞でもノミネートされたうえ受賞。ダブル受賞を果たしたのである。こうして颯爽と画壇に登場、つぎつぎと注目を集め、あっという間に画壇の寵児となっていった。画商からも次々と声がかかるが、臆病さと面倒さから、鴨居は自身の発表の場を日動画廊のみでと希望、それ以来、鴨居 玲と日動画廊の二人三脚の歩みが始まったのである。鴨居41歳、画家としては決して早くないデビューであった。
The Birth of Painter Rey Camoy
What Camoy drew
昭和会賞と安井賞のダブル受賞は、それまでモチーフと表現方法の模索を続けていた鴨居に自信をつけ、作品に物語性を持たせるという独特の画風がうまれていった。
仄暗く哀愁を漂わせた色彩と画面構成によって楽器弾きや群像などが描かれるようになるが、現実に観たものをそのままには描かず、自分の興味を持った瞬間を凝縮し、また彼流の誇張を加えて描いた。芝居好きな一面も持つ鴨居らしい一面である。
「私の村の酔っぱらい」
油彩 55×46cm 1974年
「酔っ払い、村の老人たち」
受賞から二年後の1971年、さらなる自身の表現を求めて、鴨居はスペインへ渡る。最期まで彼を支えたパートナーである富山栄美子を伴い、マドリッドへ、そして数か月後には鴨居が「私の村」と称し愛したバルデペーニャスに画室を構えた。葡萄畑が広がり、9月の葡萄収穫際には大いににぎわうこの地で、鴨居は素朴で陽気な村人たちとの交流のある充実した生活を通して、新たな創造のきっかけを得ることとなった。「私の村の酔っぱらい」はその代表的なテーマの一つである。滞在中、鴨居が母親を亡くした折、鴨居と共に酒に酔うことでその死を悼み、祈りをささげてくれた村人たちの姿に、死に向き合う人間の優しくも悲しく痛ましい姿に鴨居は魅せられた。そうして鴨居は人間の生き様を見つめ表現し、自身の思想や憧憬をこめキャンバスに向かうようになった。またこの時代には老人や貧困者、傷痍軍人など、社会的には弱者とさる人々を描いた一連の作品群が生まれた。苦しみを抱えてもなお、生きようと進む彼らの姿に、人間の本質を感じ惹かれたのであろう。これらのテーマはトレド、マドリッドへと居を移したスペイン時代以降も繰り返し描かれつづけた。
「酔っ払い、村の老人たち」
受賞から二年後の1971年、さらなる自身の表現を求めて、鴨居はスペインへ渡る。最期まで彼を支えたパートナーである富山栄美子を伴い、マドリッドへ、そして数か月後には鴨居が「私の村」と称し愛したバルデペーニャスに画室を構えた。葡萄畑が広がり、9月の葡萄収穫際には大いににぎわうこの地で、鴨居は素朴で陽気な村人たちとの交流のある充実した生活を通して、新たな創造のきっかけを得ることとなった。「私の村の酔っぱらい」はその代表的なテーマの一つである。滞在中、鴨居が母親を亡くした折、鴨居と共に酒に酔うことでその死を悼み、祈りをささげてくれた村人たちの姿に、死に向き合う人間の優しくも悲しく痛ましい姿に鴨居は魅せられた。そうして鴨居は人間の生き様を見つめ表現し、自身の思想や憧憬をこめキャンバスに向かうようになった。またこの時代には老人や貧困者、傷痍軍人など、社会的には弱者とさる人々を描いた一連の作品群が生まれた。苦しみを抱えてもなお、生きようと進む彼らの姿に、人間の本質を感じ惹かれたのであろう。これらのテーマはトレド、マドリッドへと居を移したスペイン時代以降も繰り返し描かれつづけた。
「私の村の酔っぱらい」油彩 55×46cm 1974年
「お化粧」油彩 80.7×59.9cm
スペイン、バルデペーニャスにて。
「ギター」油彩 53×45.5cm
「おばあさん」パステル 90.8×60.7cm
温かなスペインの村人たちと、
自然体で交流を深めた鴨居。
「ギター」油彩 53×45.5cm
「お化粧」油彩 80.7×59.9cm
「おばあさん」パステル 90.8×60.7cm
スペイン、バルデペーニャスにて。
温かなスペインの村人たちと、
自然体で交流を深めた鴨居。
「女性像・裸婦」
1974年、パリでの最初の個展がパリ日動画廊にて開かれ、また同年にはスペインを離れパリでの生活が始まる。また翌75年にはニューヨーク・ハーマー画廊にてアメリカ初個展も開催されるなど、このスペイン・パリ時代は鴨居の制作活動が最も充実した時期といえよう。戦術の酔っ払いなどをモチーフに、人間の本質を見つめ続けたこのころは、いわば彼の芸術の到達点ともいわれている。
そんななか、パリから帰国し神戸に画室を構えたころ、長谷川徳七(日動画廊現社長)の勧めで裸婦に取り組み始める。もともと宮本三郎に学び、巧みなデッサン力を携えるゆえ、もちろん裸婦を描くこと自体はたやすい。しかし「鴨居
玲の裸婦」を目指し、大変に苦労を重ねたという。そうして1年をかけて出来上がったのは、戦後間もないころソビエト連邦で制作された映画『石の花』から着想を得た作品であった。抱き合いながら石と化す恋人たちを描いた「石の花」「LOVE」シリーズは、以後続けて描かれるようになる。また、ショールを身にまとう単体の婦人像も手掛けたが、どちらもそれまでの鴨居作品とは趣を異にして、平静な表情と端正な顔立ちからどこか神々しい姿として表現されている。
永遠の愛の証明、聖人のような女性像は、鴨居が見つめ取り組んできた人間の暗く悲しい面とは真逆のような思想によるものといえ、興味深い。時を同じくして自画像の制作も増えたが、それらは虚ろで生気のない表情や姿で描かれている。
女性像と自画像には、「死」や「老い」に取り憑かれた、この時期の鴨居の心境を表裏一体に示しているようにも感じられる。
1974年、パリでの最初の個展がパリ日動画廊にて開かれ、また同年にはスペインを離れパリでの生活が始まる。また翌75年にはニューヨーク・ハーマー画廊にてアメリカ初個展も開催されるなど、このスペイン・パリ時代は鴨居の制作活動が最も充実した時期といえよう。戦術の酔っ払いなどをモチーフに、人間の本質を見つめ続けたこのころは、いわば彼の芸術の到達点ともいわれている。
「裸婦」油彩 72.5×116.3cm
そんななか、パリから帰国し神戸に画室を構えたころ、長谷川徳七(日動画廊現社長)の勧めで裸婦に取り組み始める。もともと宮本三郎に学び巧みなデッサン力を携える故、もちろん裸婦を描くことはたやすい。しかし「鴨居
玲の裸婦」を目指し、大変に苦労を重ねたという。そうして1年をかけて出来上がったのは、戦後間もないころソビエト連邦で制作された映画『石の花』から着想を得た作品であった。抱き合いながら石と化す恋人たちを描いた「石の花」「LOVE」シリーズは、以後続けて描かれるようになる。また、ショールを身にまとう単体の婦人像も手掛けたが、どちらもそれまでの鴨居作品とは趣を異にして、平静な表情と端正な顔立ちからどこか人間味のない神々しい姿として表現されている。
永遠の愛の証明、聖人のような女性像は、鴨居が見つめ取り組んできた人間の暗く悲しい面とは真逆のような思想によるものといえ、興味深い。時を同じくして自画像にも
「裸婦」油彩 72.5×116.3cm
「石の花」パステル 30M
「裸婦」油彩 81.0×62.0cm 1980年(笠間日動美術館)
神戸のアトリエにて。
「自画像」
1982年ごろから、鴨居の作品に「死の影」がちらつくようになる。虚ろな表情で脱力した姿の自画像を多く描いている。この年、個展の制作に追われた鴨居は、過労のため倒れ二か月に及ぶ入院を経験した。心臓の弱りを医師に告げられ、健康面に不安を持つ身となった。若いころから豪快に酒を呑み、健康に自信のあった鴨居にとって初めて触れる死の恐怖であった。「死」については、友人の評論家・坂崎乙郎と美化して話し合ったことも多くあり、自身もそれまで自殺未遂も何度も図ったこともあったが、現実に忍び寄る「死の影」におびえたのであろう。
『1982年 私』は鴨居の集大成、代表作とも評される作品である。白いキャンバスに向かう作家自身と周りには自分か今までに描いたモチーフを配した200号の大作である。疲れ切って虚脱したような自画像の周りに、モデルたちや愛犬チータ。愛したモチーフたちとの決別を覚悟したのであろうか。
人間の暗い側面にロマンを感じ、描きとっていた鴨居にとって、晩年の自画像への取り組みは自身の苦悩の現れだけではなく、先述のように芝居好きであった鴨居が演出したい自身を書き出したとも見えよう。
描くべきものや制作に苦しみもがきつづけた自画像を作品に残し、1985年9月7日、鴨居はこの世を去ってしまった。
1982年ごろから、鴨居の作品に「死の影」がちらつくようになる。虚ろな表情で脱力した姿の自画像を多く描いている。この年、個展の制作に追われた鴨居は、過労のため倒れ二か月に及ぶ入院を経験した。心臓の弱りを医師に告げられ、健康面に不安を持つ身となった。若いころから豪快に酒を呑み、健康に自信のあった鴨居にとって初めて触れる死の恐怖であった。「死」については、友人の評論家・坂崎乙郎と美化して話し合ったことも多くあり、自身もそれまで自殺未遂も何度も図ったこともあったが、現実に忍び寄る「死の影」におびえたのであろう。
「1982年 私」油彩 180×257.8㎝
「1982年 私」は鴨居の集大成、代表作とも言われる作品である。白いキャンバスに向かう作家自身と周りには自分か今までに描いたモチーフを配した200号の大作である。疲れ切って虚脱したような自画像の周りに、モデルたちや愛犬チータ。愛したモチーフたちとの決別を覚悟したのであろうか。
人間の暗い側面にロマンを感じ、描きとっていた鴨居にとって、晩年の自画像への取り組みは自身の苦悩の現れだけではなく。。。。
「1982年 私」 油彩 180×257.8㎝ 1982年 (石川県立美術館)
「勲章」 油彩 116.7×72.7cm 1985年(笠間日動美術館)
胸につけられたいくつもの勲章は、ビール瓶の王冠(栓)である。
鴨居は一般の栄誉というものに全く興味を持たず、各美術団体での出世や勲章に関心がなかった。そうした画家の世界を揶揄し、酒好きな鴨居はビールの王冠を勲章に見立てて胸に付けた自画像を描いた。
パレットに描かれた自画像
(笠間日動美術館)
「長谷川智恵子像」
鉛筆、水彩・紙 53.2×36cm
大阪日動画廊での初個展での出会いから、昭和会賞受賞を経て、鴨居 玲と日動画廊社長長谷川徳七、妻の智恵子には画家と画商の関係を超えた深い付き合いが続いた。
パリ日動画廊の個展会場にて長谷川徳七、智恵子と。
パリ日動画廊はエリーゼ宮殿の三軒となり、フォーブルサントノーレ通りに位置する。最初の個展にもまして公表であった二度目の個展では、のちに大統領となる政治家フランソワ・ミッテランがふらりと立ち寄り、じっくりと鑑賞したのち帰るも、後日また現れて一点の教会の絵を購入したというエピソードが残る。
パリの部屋で話し込む長谷川徳七と鴨居。
長谷川徳七・智恵子夫妻と鴨居は、無二の親友であった。パリではほかの日本人画家たちとの付き合いをほとんどせず、時折東京から向かった長谷川夫妻の到着を大歓迎したという。
ニューヨークで個展を開催した、
ハーマー画廊の前で長谷川智恵子と。
鴨居玲写真:富山栄美子
Rey Camoy and Galerie Nichido
Kasama Nichido Museum of Art
"Rey Camoy's Room"
2015年、鴨居 玲の画業を永遠に顕彰するため、未完の自画像やデッサン、身の回りの愛用品などを常設展示する「鴨居 玲の部屋」が開設された。作品完成に至るまでの過程や画家の心の軌跡をたどり、鴨居 玲の魅力の満ちた空間である。
笠間日動美術館のHPへはこちら >>>
2025年日動画廊で開催された「鴨居 玲展」に、笠間日動美術館より特別展示された鴨居 玲の遺品の数々。
1928年
石川県金沢市に生まれる。
1946年
金沢美術工芸専門学校(現在の金沢美術工芸大学)に入学、宮本三郎に師事する。
1950年
二紀会同人に推挙される。
1952年
田中千代服装学園の講師となる。
田村孝之介が主催する六甲洋画研究所で児玉幸雄、中西勝らと後進の指導にあたる。
1959年
渡仏。
1961年
帰国、神戸市にアトリエを持つ。
1965年
単身ブラジルに渡る。その後ボリビア、ペルーを放浪する。
パリに渡りグランド・ショミエール街にアトリエを構える。
1966年
ローマに滞在し、度々フィレンツェを訪ねる
帰国。
1968年
大阪日動画廊、東京日動画廊本店で初個展開催。
二紀会会員に推挙される。
1969年
「ふりかえる」で第4回昭和会優秀賞受賞、以降日動画廊での出展を重ねる。
「静止した刻」で第12回安井賞受賞。
再びパリへ渡る。
1970年
帰国。
1971年
スペインに渡る。
マドリッド、バルデペーニャス(ラ・マンチャ地方)、トレド等にアトリエを構える
1974年
パリ日動画廊で初個展開催。
師 宮本三郎が死去。
パリにアトリエを構える
1975年
ニューヨークで初個展開催。
1977年
帰国、神戸にアトリエを構える。
この頃から、裸婦を描く。
1979年
『鴨居 玲素描集 <酔って候>』神戸新聞出版センターより刊行。
1982年
過労のため神戸市の病院に一か月ほど入院。翌年、翌々年には入退院を繰り返す。
1984年
金沢美術工芸大学非常勤講師として迎えられる。
1985年
『鴨居 玲画集 <夢候>』日動出版部より刊行。
第21回昭和会展の招待作家選考委員をつとめる。
9月7日神戸市の自宅で急逝する 享年57。
Camoy Rei Profile